伝わる法則 -3ページ目

音楽で伝えるメッセージ

秋元康の「トレンド学」という本を読みました。(立ち読みです。)

その中に作詞法みたいなことが書いてあり、

言葉はそれを「発する人との関係」が重要だとありました。

例えば、中森明菜の『飾りじゃないのよ涙は』。(昔の本なんで、例えが古いです。)

彼女は、非常に強いイメージがあります。

だから、「私は泣いた事がない~」と始まると、インパクトがあるわけです。

なるほど。

僕は今、NEWS23の主題歌にもなっている「to U」という曲が好きでよく聴きます。

これは、ap Bankといってミスチルの桜井と小林武史が立ち上げた環境プロジェクトの曲です。

桜井が脳梗塞になり、死の目前まで経験したのを知っているから、

「頑張らなくていいよ」という言葉が伝わるんだと思いました。

言葉はやはりツールで、発する人との繋がりが大事なんですね。

社会と向き合う映画

誰も知らない



是枝裕和監督の授業があった。


題材は『誰も知らない』。


1989年に起きた事件をモチーフにしている。


彼の映画を一言で言うなら「社会と向き合う姿勢」だ。


授業で言ったこの言葉でそれを実感した。


「政治、メディア、法律、社会は網の目になるべきである。」


これは、例えば、法律で救えないものをメディアで救い、


政治で救えないものを社会が救うべきってこと。


なのに、今は価値観が一元化している。


悪いと思ったらみんなが一斉に非難し、叩く。


色は白か黒しかない。


そうじゃなくて、もっと多様な価値観を持つべき。


実際のこの事件の時には、母親への非難が集中した。


YOU演じる「母親=悪」という描き方をしなかったのもそのため。


これが、是枝監督の社会と向き合う姿勢である。




俺は映画を見る時、メッセージってとこに軸がある。


それだけでは、この映画の魅力はわからない。


もっと違うアプローチも必要なことに気づいた。


結構でかい収穫だ

朝鮮人でも韓国人でも日本人でもない。

GO


★★★★☆


『GO』を見た。


授業で聞いた行定監督の想いがダイレクトに伝わってきた。


国籍も国境も関係ないやん。


素直にそう思った。


シェイクスピアの引用。


リーチ1回転で世界を表す。


そういう表現の部分も上手くて、完成度の高さを感じた。


個人的には、恋愛より親子のシーンが良かった。


特に、父が韓国籍を取得し、ハワイ、スペインと渡ったのは、実は息子の為だった...


というのがわかるシーン。


でも、どのシーンでも行定監督の経験というのが見えてくる。


経験が生むメッセージの強さを実感した。


8月6日から早稲田松竹で


『北の零年』をやるみたいだから見に行こうと思う。


800円だし。


アカウンタビリティ

ニュースの現場から

★★★★☆


『ニュースの現場から』って本を読んだ。


元テレ朝のアナウンサー。


長野智子さんの著書である。


「日本のマスメディアに必要なのはアカウンタビリティである。」


という意見には心から共感できた。


“アカウンタビリティ”とは説明責任。


発言は署名つき、間違ったならば発信者が謝罪、釈明し、責任をとることを言う。


アメリカでは、


タブロイド紙以外の新聞、雑誌はほぼ署名記事だそうだ。


テレビも同じ。


その日に起きた出来事を機械的に伝える「デイリーニュース」より、


ある出来事に焦点を絞って、深く掘り下げ、検証する「ニュースマガジン」。


こっちの方が人気があり、信頼性も高いという。


その信頼性は、トップレベルのジャーナリストがキャスターを勤めることで維持される。


彼らが間違えば、きちんと謝罪し、アカウンタビリティを担っているのである。


一方、日本ではどうか。


雑誌の署名は増えつつあるものの、新聞は、毎日新聞くらい?である。


テレビはというと、


信頼するのはテレビ局という組織で、個人に対する信頼度は少ない。


さらに、その組織は間違わない事が当然とされている。


マスメディアにおいて大切なのは、


個々人の責任の所在を明らかにすることだと思う。


そして、それを視聴者がきちんと選択する事。


そういう考え方が日本全体での責任感、情報に対する意識を変えていくのだと思う。

ぼした、ぼした、滅ぼした。

行定勲


大学で行定勲監督の授業を受けた。


彼には人を惹きつける力がある。


映画に対する考え方は芯が通っている。


だから、学ぶことも多かった。


まず1つは、伝えたいメッセージへの執着心が何より重要である事。


これは当たり前のことのように思える。


でも今まで授業を聞いた映画監督の中で、これほど明確なメッセージを持っている人はいなかった。


熊本に住んでいた子供の頃、ぼした祭りという朝鮮人を蔑む文化に憤りを感じた経験。


そして、友人の死。


そういった彼のルーツが強いメッセージを作り出していることを実感した。


やっぱ、自分には経験値がまだまだ足りないって思った。


そしてもう1つ。


世の中を動かす映画というのは、「体制」と「反体制」の要素が入っていること。


言い換えると、


大衆に受け入れられながらも、観客を無視してまで伝えたい自分のメッセージを融合させること。


そのためにこうしなきゃいけないなんていう法則はない。


ただ、行定監督は、『世界の中心で愛をさけぶ』のような大衆的な原作に、


経験から来る反体制的な想いを融合させるのが上手いんだと思う。


彼の映画は『商業とアートの融合』だと言われているらしいが、授業を聞いていて納得できた。


贅沢な骨、向日葵、GO、きょうのできごと、北の零年...


彼の作品を全て見てみようと思う。


それでまた、今日言っていた意味が実感できるはず。




現場から始まる

踊る大走査線 the movie 踊る大走査線 レインボー


『踊る大捜査線MOVIE』


『レインボーブリッジを封鎖せよ』の2本を見た。


これは「わかりやすさ」があって、メッセージもシンプル。


本庁と所轄、キャリアとノンキャリアの軋轢を描く事で、現場の重要性が分かる。


笑いとシリアスなシーンのバランスも上手い。


ただ、わかりやす過ぎる


「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ。」


というセリフはいいにしても、


レインボーブリッジで犯人が組織について語るシーンは、


直接的すぎる...


いや、ありえない。。。


って感じでて冷めてしまいました。


まーなんしても、シンプルさと複雑さのバランスって重要だと思いました。

バックストーリー

どこまでもいこう


『黄泉がえり』が代表作である塩田明彦監督の授業があった。

彼の作品、『どこまでもいこう』が題材だった。



人物設定の仕方から音の表現方法まで、細かい説明をしていただいたが、実感を伴った理解ができなかった。


なぜなら、メッセージを伝える上で、遠回りをしすぎていて、

伝わるものが何もなかったから。


このテーマである

「友情、裏切り、許し(別れ)」はほとんど感じられなかった。


メッセージを伝える上で、

「わかりやすさ」という要素は大事にしなきゃいけないと実感した。



ただ1つ勉強になったことがある。


それは「バックストーリー」を考えるということ。


この映画で、野村という少年のお母さんが数十秒登場するが、

そのたったワンシーンのために、お母さんは料理が上手いか、なんの仕事をしてるか、など様々なバックストーリーを考えたらしい。


そうすることで、ほんの数十秒のシーンでも、お母さんのキャラクター、せりふにリアリティが出ていた。



これは映画だけでなく、15秒のCMを作る時なんかには応用できる方法だと思った。

営業を考える。。。

英会話スクールに通おうと思っている。


んで今日は新宿に用事があったので、

NOVAはどれくらいの相場でやってるのかと思い、行ってみた。


副主任とか言うおばちゃんが登場


→営業トークを繰り広げられる(めちゃ長い)

→飽きる

→今日はとりあえず登録してといわれる

→絶対しないと言い返す


こんな攻防を続けた。


彼女のトークはマニュアルそのもので全く惹かれなかった。

彼女の営業はモノを売る行為が全ての目的に見えた。


モノを売ることが先にきてはいけない。

ホントにその商品が俺に必要かどうか敏感に感じ取った上で、

初めてモノを売る行為が生まれる。


彼女にはもしかしたら俺に必要ない商品かもしれない。。。

という考えなど微塵もなかったに違いない。



反面教師としては素晴らしい方でした。


文化としての映画

鬼が来た


2000年のカンヌ国際映画祭グランプリをとった作品「鬼が来た」を見た。


20代の俺が見て、

もっと若い世代に見てもらいたい映画だと思った。

ほんの20数年しか生きていない俺にはどうしても戦時中の実感が持てない。

そんな自分にも日本占領下の中国国民の生活、感情をリアルにイメージさせてくれた。


この映画を見た後、数時間もすれば、その感覚は薄れてしまうだろうけど、

この映像が1度自分の頭に焼きついたことは、

これから生きていく上でも考える素材を与えつづけてくれるだろうと思う。


こういう映画が中国側から生まれ、

日本から生まれないというのはまだ何か根深いモノを感じる。

日本人の意識の薄さも感じる。


ビジネスだけではない、

文化としての日本映画に期待したい。

ミリオンダラーベイビー

ミリオンダラーベイビー


柏松竹に映画「ミリオンダラーベイビー」を見に行った。

今年のアカデミー賞4部門を独占した作品。


この映画は、殺す事も愛する1つの形であると言う。

ボクシングがメインテーマではないが、

パンチがあたる音、倒れるシーン、

全て誇張しすぎで、全くリアリティが感じられなかった。


ボクシングはこの映画の重要な入り口であるにも関わらず、

まるで八百長のスポーツを見ているようで気分が悪かった。


ただ、後半、

ヒラリースワングの体が動かなくなってしまうシーンから

モ・クシュラの本当の意味が明かされる最後のシーンまで、

息もつかせぬ展開で考えさせられた。


この映画も然り、

洋画は最後、死で終わることが多いが、

キリスト教の人にとっての死という感覚は日本人の感覚と違うんだろうか?